アレン・ネルソンとの十年 《1》

<出会いと別れ>            平塚淳次郎(宝塚九条の会
1998年2月、元アメリ海兵隊員の通訳を頼まれました。
95年1月の阪神・淡路大震災で古い自宅が全壊認定を受け、3月に教職を退き、三度目の春を迎えようとしていました。大阪城に近いホテルで紹介されたネルソン氏は、人懐っこい笑顔が印象的な人でした。初対面の挨拶を交わした私は、そこでホッとしたことを覚えています。「黒人訛りの聞き取り難い発音では?」という気がかりは一挙に解消でした。
ところが事態は思いもかけない展開を遂げます。その夜を含めて大阪市内とその近郊で三回の講演を受け持ったのですが、この人の話の中身に圧倒されて胸が詰まり、一度ならず通訳を途切れさせたのです。
「頼まれた仕事が終わってこのままサヨナラとはいかんナ」と、二日目の講演の後、我が家に招いて、更に突っ込んだ話を聴きました。そして「いったんは戦争でボロボロになったこの人のメッセージを多くの人に、特に若い人に、届けよう」と決意しました。
2009年3月25日アレンネルソン氏永眠。享年61歳。
十年の歳月が流れました。2008年10月1日成田着で幕開けのアレンさんの秋の列島行脚は12月4日まで、オバマ大統領当選のニュースを挟んで、二ヶ月を超す長丁場でした。
すでに九ケ月前の1月末、滋賀県の高校で質問に答えて「イラク戦線撤退を約束しているオバマ候補宛に『沖縄からも撤兵を!』と要請の手紙を出した」と、生徒たちを感動させたアレンさん。今回11月8日の当選以後の講演では「『私には夢がある』と訴えたキング牧師の暗殺後僅か四十年・・・、バアちゃんに見せてやりたかった」と個人的感慨をこめながらも、国民の運動なくしては今後の前進はあり得ないことを付け加えていました。
序盤10月4、5日に呉、広島で通訳をした私は四週間後の29日、沖縄からのアレンさんを伊丹空港に出迎えました。「体調が良くない」と言います。11月の講演はほとんどが関西圏なので我が家の滞在が続きますが、休養日は僅か四日しかありません。以前診てもらって, 彼も信頼感を持った地元の医師へと勧めても「講演の予定は最後までやりきるから、心配しないで」と、応じません。しかし「会場への往復は全て(電車はやめて)私の車にするよ」という私の提案には「ありがたい」と、素直でした。
おそらく疲労も極限に達していた終盤のある日、講演先から戻ると三歳の孫が来ていて「アレンちゃん!」と回らぬ舌でニッコリ。「この子が私の名前を呼んでくれた」と、相好を崩す、子供好きのアレンさん。娘一家を見送る眼に光るものがありました。
11月27日関西最後の講演を終えて、東京に向かう彼を新大阪駅まで運びました。翌年1月下旬以降の予定も確認済みなのですが、「帰ったら連絡するよ」と、思い詰めた表情でした。「彼は何かを予感している・・・!」という思いを消すことができませんでした。         
年の瀬も迫ってアネッタ夫人よりメール着「アレン病篤し、1月の予定キャンセルされたし。」続いて年明け早々「多発性骨髄腫の診断下る。」そして三ヶ月足らずの命でした。
この病気がベトナム帰還兵に多く見られることはアメリカ退役軍人局の認めるところで,米軍が使った枯葉剤の影響と考えられています。

青年期に殺戮の現場に駆り出され、壮年期はその後遺症に苦しみ、そして自国の兵器によって最期を遂げる ― アレンさんの生涯は戦争の非道を身をもって証すものでした。