アレン・ネルソンとの十年 《4》

PTSD−アレンさん第二の戦い>              平塚淳次郎(宝塚9条の会)
「帰国後すぐ平和運動を始めたのですか?」98年最初の講演会後に、いきなり出た質問です。「語り始めたのは18年後・・・」とアレンさんは口数少なく切り上げました。

戦争で命を失った者は軍人墓地に祀られ、腕や脚を失った傷痍軍人はそれなりの補償の対象とされるようになりました。しかし、目に見えない心の病は、第一次大戦以来、砲弾ショック(shell shock)とか戦争疲れ(battle fatigue)と称して、いわば社会の片隅に追いやられていました。
ベトナム戦争では前線から帰国後、家庭生活にも職場にも適応できない人が多く、「ベトナム戦争症候群」という言葉が社会全体の「病理」現象にも適用されました。―男性ホームレスの半数(一説には8割)が帰還兵である。自殺者の実数は数え切れないほど多く、戦死者数5万8千に匹敵する―などの数字も上げられました。
因みに小泉内閣の時代にイラクの「非」戦闘地域に派遣され、その後「無事」帰国した自衛隊員の自殺者の数が国会で取り上げられたことは記憶に新しいところです。

「お前は私の息子じゃない」
これは13ヶ月の前線勤務から一時帰国したアレンさんを迎えた母親が発した言葉です。殺人やさまざまな暴力行為を経験した息子の変化を母は一目で見抜いたのです。
ベトナムでどんなことが?」と妹から訊かれても戦場の人殺しの体験は話せない。かっての陽気なアレン青年は、昼間は人を避け、夜になると悪夢にうなされて大声を発して徘徊する「危険人物」になっていました。二週間で母から「家を出て欲しい」と言われて、休暇半ばで基地に戻るほか身の置き所がなかったのです。
四年間の軍務を全うしなければ僅かな手当ての受給資格も得られない。残る三年の勤務は針のムシロでした。隊内で「非行」を重ねるアレンさんはベトナム戦で四つの勲章を与えられた「英雄」として、辛うじて軍法会議の処分を免れたのでした。
「ネルソンさんも人を殺したのですか?」
退役軍人としてブルックリンに帰ったアレンさんは23歳のホームレスでした。古い空きビルの一室で暮らし始めて間もなくパッタリ高校時代の同級生に出会います。学校の教師をしている彼女は「生徒達に戦争体験を話してやって欲しい」と熱心に働きかけます。断りきれなくて遂に出かけた四年生の教室で「ネルソンさんも人を殺したのですか?」と一人の女の子から質問されます。目を閉じて立ち往生・・・。やっとの思いで「イエス」―子供たちは恐れて逃げ出すどころか、「かわいそうなネルソンさん」と抱きしめて・・・、生徒も教師も彼と一緒に泣いてくれました。
「病気の治療に取り組もう。そして子供たちに『本当の戦争』を伝えよう。」